昭和57年09月01日 月次祭



 先程秋山先生が前講でお話を致しておりましたが、まぁえらい教学的と言うか哲学的な、御神願と言う様な事を(全て  を)そんな事をそんな事を話しておるようでしたね。銘々にかけれれる神様の願い、いわゆる神の願いというものが成就すると言う事は。氏子の真心、氏子の真と天地金乃神様との、いわゆる合作となるものです、あいよかけよでなからなければ、ほんとうのおかげになっても、神願が成就致しません。
 先程お祭り前に椛目の妹が、椛目に居りますが、椛目のある方がお家の子供さんが、3歳になる子供が昼から出たなり帰ってこないで。村中探しました。もう暫くしたらまたお願いに参りましたが。それが従妹同士二人連れで出て行っとるという。自転車を買うてもらって、まぁこんな小さいこんな自転車にのって危ないと、こうあの思っておっと妹がもうしておりましたが。二人で来ないお願いをしてくれ。それで娘の方はすぐ帰ってその探しのお手伝いにまいりました。
 そのことを私しお届けさして頂いとりましたら、あの郵便切手を頂いたんです。どうでしょう皆さん中にどんなに素晴らしい内容の事が書いてあっても。神様に例えば手紙を出すと致しましても。切手なしで行くでしょうか、たぶん言ったに致しましても。却って神様に迷惑かける様ななもの、向こうで言うならまた倍も切手なら切手料を取られる様な、ように私共がねこの切手一枚それがいわゆる真だと思うですね。そこにはちゃんとこう、そしたら又ちょうど立とうとしょうる時、妹がお礼に出て来ました。
 おかげで子供さんが、それが善導寺の郵便局の前じゃったち。ははぁやっぱぁ切手を貼っちゃったけんで、もう郵便局にいわば投函が出来た、神様にすぐ届いた。おかげを頂いたというて思います。ですから信心をさして頂くと真とは、真心とはとまぁ追求すわけでございますが。どうもそのうおかげおかげというて。おかげが先行致しますと、本当の真が出てこない。これは例えば教えを皆さんに見て頂いて、もうおしげを本当に行事ようというその、一心発起をささして貰うそっから教え行ずる、行ずるというても。
 人間生身の事でございますから、御粗末御無礼の事ではございますけれども。本気でそういう気になって信心の稽古をさして頂こうということになると。もう切手を貼ったことにして神様はおかげを下さる。出来とらんけども出来たかの様にしておかげを下さる。ということを今日私はある方のお取次ぎをさして頂いて。もう本当にそう感じました。というのは福岡の方から関屋さんと言う方が、もと久留米におられてそれ時分熱心にお参ってきてましたけれども。まぁおかげおかげの信心でした。
 所が幸いあの西新分会のいわゆるくの一会の、伊藤さんの近所に移られたと言う事で、もうあちらにお参りをなさる。そして伊藤さんの話を聞かれ、もう信心がもうどんどん進んで行く、是は不思議ですけども本当にこのう教える人の信心というか、皆自分が実験実証した話をされる、身体が具合が悪い事をお届けされたら。伊藤さんが言われるのには、関屋さん色々難儀な事がありますけれど、これが人が助かる事の為の修行と思って、ご信心させて頂くとその痛い事も、苦しい事も有り難くなると言うお話しであった。
 まだまだそこまで自分御信心というものは、自分が助かりたいと言う願いだけ強いけれども、人が助かる事のためにこの難儀があるなんか思いきらなかったけれども。実際おかげの実証をいわゆるおかげを現しておられる、伊藤さんが言われたことだから、本気で痛い時、はぁこれが自分の周囲の人が助から事のための修行だと、思わせて頂いておりましたら、おかげで身体も健康になりましたが。
 思いも掛けないおかげになってまいりましたと。孫が長い間小児ぜんそくで難儀をしておりましたが、その小児ぜんそくの孫が最近全然起らんようになったというて、お礼のお届けがありました。この難儀が人の助かる事の為に、とはまだしんから思われないけれども、伊藤さんが自分で実験実証した、おかげを受けている人が言っておる事だから。あぁまぁそういう気になってまぁね、まぁ是が自分の周囲の人が助かることのための修行と思わせて頂いた。
 だから完全に自分のものになっていないけれども、そういう体験が積りに積もって参ります。実験実証がこう積もって行くとそこから本当にじぶんの周囲、いうならば人の事が助かって行かれるだけでじゃない、自分も助かっていけれる本当のいうなら道が分って行く。いわゆる信心の確立というのはそういうものなんです。信心が育っていく事だと思うです。今日鹿児島のあるご信者が、から分厚い手紙が参りました。読めませんから読んで貰いましたら、先だって、お里がこちらにございますので。
 23日の月次祭にお参りを頂いて帰りました。それ以来と言うものは、私しの心の中にあの23日の先生のお話が自分の心の中に、生き生きとどんな場合でも甦って来る、まぁ姑親のうちらしいですが、もう姑親から特にこう皮肉な事でも言われると、晩が眠れん様に心が痛んだ、ところが先生不思議な事にそういうことが御座いましたけれども、それが何か知らん嬉しゅうして有り難うして、晩に眠れんと言ったことがなくなりました。ていうて手紙が参りました。
それにもちゃんと御初穂と15年記念祭の御祭典費をという、そういうね、まぁいうなら切手をはったわけですよ。ただ有難う御座いますじゃない。そういう心が有り難く生き生きとして来るとそれができるんですね。素晴らしいことでね。おんなじ事柄の中にそれこそ晩眠れん様に、その事が気にかかって、腹が立ったり悲しかったりしておったのが、あの御理解を頂いて、御理解を心に思わせて頂くと、それが反対に有難うなって来た、嬉しゅうなった来たと言う訳なんです。
 信心の喜びと言うか、喜びの芽というのは教えをそうした実験実証から生まれて来る、喜びのね、その芽をいよいよ育ていくことが信心なんです。これも先程宮崎から参って来る方が、今代理でお届をなさいました。御主人が非常に酒を飲まれる、それからいろんなパチンコやらでもう、何時も生活いわゆる仕事の上にもですけれども、いつも火の車である、御願いをしていうならばこりゃ宮崎の佐田所なんですけれども。もうその御近所ですから、あちらに神様がお祀りしてあるから毎朝参って来る。
 毎朝御理解を頂いて、まぁ胸をなでおろしなでおろししておるうちに、有り難うなって来た嬉しゅうなってきた。ほとうにもう私し変わらにゃ、そしたらその酒癖の悪かった御主人が、お酒を頂かん様になって御主人も一緒に参って来る様になった。私はそれでおかげを頂いておるとばっかり思うておったところが、今日の御届ではあれかろもっと、もとは増々悪るうなったというのです。それでもうこの人とは別れたいというて話しを致しますと、今までは飲むだけでしたけども暴力をふるう様になった。
 というお届でございました。折角信心の有難さ、喜びが出てきたところが、まぁ主人がもとに増してそのもう悪くなったとこういうのです。その事を私し神様にお取次ぎさして頂いとりましたら、御神米を頂くとのあの白い、裏側に返すとこを頂いた。前向きで信心はさせて頂こうこれによって、本心の珠も磨こう信心を分らせて頂こうと前向きです。ところが次に難儀なことが起って来た。だから信心の方も少し疎かになって来た。今日佐田さんが言うとられます。
 この頃から御主人が死ぬか生きるかと言う様な、大病なさいましたもんですから。もう1、2ヶ月間もう人の事じゃないて言う様な状態でした。じゃからね、御願いもしておらなかった、今日こちらに参った来る時に、そういうお届があったとこういうのです。そこで私しはもうそのまぁいうなら、自分の心を翻した時にいうなら段々地位のおかげも頂いて来た様に、それを又元のこころになってしもうて、もう別れようかと言う心になって来た時に、神様のここに後ろ向ける事になる。
これをもう一遍ひとつ前向きに信心をさせて頂いたら、確かに信心の喜びというものがですね、なんかにちょっとつまずくと、無残に喜びの芽を摘んでしまう事になり、後ろ向きになってしもうて、神様をいうならば謀略してしまう。これでは本当のおかげにもならないが、もちろん信心んもそれでは進ません。信心を進める信心を育てると言う事でございますが、私し共が頂いておるその信心が、どんなに素晴らしい信心であるかと言う事をね、先ずひとつ分らなければいけません。
この前の月次祭だったでしょうか。倉本さんの話を致しました。改式をされるという事になった、大変御霊様は喜びの情を見せて下さった。それこそ神様からぜんざいぜんざいという、いうならば、はぁ良いかな良いかな素晴らしい事だと神様のお言葉までまで頂いた。でその気になって8のつく日にという事であったから、遠方に居られる息子さん達に連絡を取った所が、昨日でしょうか電話が掛って来て。
 お母さん今迄仏教であったのが急に金光様に改式するというけれども、どうも僕ぁそのう抵抗を感ずるという電話が掛って来た。もう金光様のおかげを頂いておるという事は子供たちは知っておりますから。おかげを頂いておる事実も知っていますから、それには反対はしなかったけれども。改式をすると言う事になったら、反対とまでは言わんけれども、なんとわなしに抵抗を感ずる。
 改式祭には僕たちもいかんならんからと言った様な事であった。今朝方からまたお夢を頂いた、そしたら白扇がこう広がっておるのに、肝心要のこの要のところがばらばらになっているところを、今朝からのお夢に頂いたというお届が、今日御座いました。だからこれが本当だ、是が有り難い事なんだと言うなら、確信していうなら信心を育てて参りましたら、自分たちだけではない御霊様もご一緒に助かってもらいたい。
 家の出合う先祖が助かってもらう言う事に喜びを、まぁ感じる訳ですし、また助かってもらいたいと思う訳ですけれども。そう言う様なちゃっと、九州外から心でちょっとぐらい、子供達反対するならどんこん出来んと言う様な、心に少し迷いが起ったとじゃないでしょうか。したらなら今朝からのお夢に、せっかくのこう広がっておるこの扇子が、ここで肝心要が抜けておったら、結局またばらばらになってしまう。こりゃ一心発起誰がなんというても、いよいよ金光様の有り難いと分ってもろうて。
 一家が一門があげて、金光様のお取次ぎを頂いて、助かっていけれる様に、霊肉ともに助かりたいという、改めて今日お届けがございました。私共の行く手には、はぁ売れた、また売れたという様な事ばっかりはない。今日はどうしてこんなに売れんのだろうかと、どうしてこの、集金が入りやすく入って来こないのだろうか、そんなときもやっぱあるわけです。ですからそういう時にこそ力を頂くんだと、言う様な信心を一つ分らして頂かなかならんが。
 私達が分らしてもらう信心、私共が頂いている金光教のご信心と言うものが、どんなに有り難い尊い、まぁ昔の先生方が言われました、前代未聞の宗教、開闢以来こういう有り難い神様はござらじゃったというように、聞いてまいりましたから。ならどこが開闢以来ですかどこが前代未聞ですかというと。まぁいうならお取次ぎの働き、まぁ教祖様が生神様になられたお方の、と言った様な事が、前代未聞と言うたり、開闢以来と言うてきたのですけれども。これでは誰でも納得いきませんね。
 御利益を言うだけでまだ金光教だじゃなくてもいいですもんね。さぁ御利益があらたかだから金光様のご信心は、まぁ前代未聞だとというふうには言えんのです。私は今朝からおゆめを頂いて、もういよいよなるほどお道の信心が、この様にも尊いんだという一つの決定版の様な感じが致しました。と言うのはねお夢の中で、ふぐの料理をを頂くんです。しかもねもう今まで克って頂いた事のない様な、手法と言うですか食べ方ですね。様々ないうならふぐ料理を頂いておる所で目が覚めた。
 皆さんどう言う事だと思いますか、私しは今日思いました。ふぐといやぁどんなにその珍味といわれる、まぁ最高に美味しいお料理でございますが、これをこういう最高の珍味までそのして、それこそ毎年毎年いまでもなら、フグを食べて中毒死する人が沢山出て来る。そういう猛毒を持っておる魚を、一番初めに食べた人死んだ人もあるかも、もちろん沢山あるでしょう。それをこうして食べれば美味しい、こういう食べれば当らないというふうに。して来た人間一つの欲というかね。
 人間の知恵と言うかに、私今朝改めて驚きました。そりゃあそうですばい、わたしゃあん、ナマコなんかはね、一番初めに美味しいもんだと食べた人は、はぁもう偉い度胸のあった人だろうと思います。はぁらぐちゃぐちゃしとるとばね。ありゃ朝鮮にあのう釜山に言ったことがあるが、子供たちがあれをつかんでね、なまを食べておるずうもださんなね、はぁもうなんか気持ちが悪かったけど、さぁ実際自分がお酒を頂く様になって、酒の肴にいっぱいきゃまたまぁこれこそ珍味であります。
 美味しゅう、見ただけでもぞぅっとする様な感じのあのナマコ、一番初めに食べた人は又これが美味しいというてした人は、大変なやっぱ度胸の有った人であろうと思われる様に。金光様のご信心、いや教祖の神様と言う方はそういう意味で私しは、今日は今朝の御理解に、もちろん開闢以来であり前代未聞でもあるが、それこそ前人未到の道を開かれたお方であるというふうに、今日は聞いて頂いた。あらゆる宗教が何千年、何千の大きな宗教が沢山出来ました。が今日も栄えておる宗教もありますけれども。
 そこにはね。いうなら、十全の信心とでも申しましょう。教祖の信心は十全の信心、たとえば日柄方位を言うたり、かしょうを言うたりいろんなそう言う様な、まぁこれは学問の上でもそれが、まぁ一つの怖かって言う事を言われとるからまんざら迷信とも思われない所がございますけれども。教祖の神様はそういう例えば、金神様へ向われる姿勢というものが、なるほど教祖御自身にもきにしにもあります様に、人生のあらゆる苦難にも出会い賜いというのは、教祖様は七墓を築く様な難儀な事にも出会われた。
 そのためには家相が悪いとか、と言う事にもやはりその道の人、達人と言われる様な方達にお願いをして納屋一つ広げるんでも、その家相を見立てたとこういう。だからそれだけで済んだとは思わない。人間生まれを持っております凡夫の事で会い分らん。どこに御粗末御無礼があるやらわからんと、実意を込めて向って行かれた。そういう金神様と言う様な、知って向かえば命を取る、知らずに向こうても目を取ると言われる。
 程しの神様ですから皆んながそれを金神避けと言った様な恐れおののいて、そこを避けて通る様な行き方をした中に、教祖様その金神様にいよいよ向かわれた。目を取ったり命を取ったりなさる程しの神様なら、又目を下さる事も命をまた下さることも出来る神様に違いない。これは人間氏子のどこかに御粗末あって、御無礼があってのことであるとして。いうなら御向きを変えて下され、御向きを変えて下されというて。まぁ実意の限りを尽くして進まれた、そしてなら教祖様がね。
お取次ぎの座に着かれる様になったらどうですか、今までは言うなら金神の祟りのなからなければ。例えば家を一つ立てるでも、使い勝手の良いのが良い家相じゃと仰せられる様になった。空に雲のないほんぞら温い日が吉日ね。天謝日だとさせられるようになった。大変なそれこそ、ま、ナマコを食べたり、ふぐを猛毒のふぐを珍味であると分らして頂くために、食べ始めた人達が素晴らしい様に、金光教の信心は素晴らしいです、あらゆる宗教であれを食べてはならん。
 あれを飲んではならない、こうしてはいけないと言った様な事の中で、いうなら合楽であそこの所一切の事柄に御の字を付けるとこう言う。人間が人間らしゅう生きながら、いうなら前代未聞の道、言うならば前人未到の道を教祖の神様が開いて下さったのだから、その前人未到の道を、私共のひた歩きに歩いていかなければならないけれども。教祖金光大神が亡くなられて100年の間に、いわゆるこの道を本当に歩く、教祖の神様が言われる事を実証していくという人が段々無くなって来た。
 そこに合楽教会の誕生があり、合楽に御理念が唱えられるようになり、一切信愛論が言われる様になり、こういう生き方の中に、人間が人間らしゅう、しかも難しゅうはない、その気になれば誰でも出来る手立て。本気で教えを行じよう、どんな難儀な中にあっても金光様と今迄それこそ、眠れん様にあっても、悲しい事であっても、腹立たしい事であっても、反対に有難うなって来る様な道が説かれるのである。
 だからそれを行事なければ駄目なのである。行じてる内に成程とがてんがいくけれども、またならそれが途中ではです。これが試験であろうお試しであろうかと言う事もありますけれども。そこをいよいよ乗り切らして頂く信心を体得して信心を進めていく。今日は支部長会が会議室てあっとりましたから、4時から2、30分間出てくれというので出てお話をさして頂いたことでした。もちろん記念祭の打ち合わせが、まぁあった模様でございました。
それで皆さんに私が申しました、たとえばね、貴方方が長の支部長というか、こりゃ総代と言うてもいいでしょう、それがお世話係というもんじゃいけません。その責任において信心、そして私しは今日今先程話した関屋さんの話を致しました。それはなかなか出来ませんけれども、少しは言うには難しいけれども、けども遠かようにも思うけども、つんばってからでもその上の信心に進んで行こうと言う、意欲を見せると出来なくても出来たかの様にしておかげを頂ますよと。
 関屋さんがおかげを受られた話をさして頂いて、その暫くしたら本人の伊藤さんが今日参って見えた。そしてお届をされますのに、立派に神様と御霊様がお祀りしてある、それがもうそのうお夢の中ではもう、素晴らしい大きな神様と御霊さま、その御霊様と神様の真ん中んところに、真っ赤な七宝塚というですかね。自動車が一台置いてある所を頂いた。乗り物の御徳と言われる、まぁあれは2人か3人しか乗れないそうですね、いつもあそこは2人3人お参りがあるようなおかげをを受けておられる。
 そしたらまたお夢の中にね、その機関車の徳を受けよと、小さいスポーツカーから機関車で引っ張って何両もの車両を引っ張っていける様な、徳を力を受けて行けよと。ためにはすき焼きの信心をせよとお知らせを頂いた。今朝来て研修の時にも皆んな、そのすき焼きということはどう言う事かと、それで皆んなで研修した事でした。向うの勝っての方では大小様々餅がいっぱいおいてある、いわゆる餅は心持とか真心、あの人の周囲にはその真心の人が沢山集まって来る様な、まぁ内容を持っておられる。
 機関車の徳をそれにはならどういう事かと言うと。すきやきのおかげを頂けよと。研修会で皆んなに私がそれを問いました。はぁやっぱりすき焼きは牛肉ですから、牛はめぐりといわれるから、めぐりを有り難く頂くと言う事でしょうと、言う先生もありました。あれには豆腐とか、ねぎとか、はるさめとか、また糸コンニャクの様な、まぁとにかくあれに合ういうならばすき焼きね。あれに合う野菜とか、それに付き合わせるものがです。その一つ一つを思うてみてです。
 私しゃ葱がすかんとうふがいかん、あれはいかんと言う様な事ではなくて、それに合うものなら何でも、そのすき焼きの中に頂いて、その牛肉の味わいで少しあれは砂糖がいかなきゃ美味しくないね。そんな話を今日は先生達しまして。秋永先生が今日は皆んな会食をしたいと思います。それで会食にもよかったら出て下さいとこういう。所が私しゃこの頃皆んなと一緒にお御馳走をねると言う事が出来なくなっておりますから。もう皆さんと一緒に頂く事が出来ません。
 それが親先生今日は皆んなですき焼きをしょうと言われます。ほうちゅてから、まぁ手をたたいてでその神様の、いよいよ支部長さん達、すき焼きの信心をしてくれよ、いうことを願うておられる、またそうあらなければいけない。と言う様な感じが致しますね。さっきの郵便局じゃないけれども、そういうお知らせを頂いて今日も恐らくすき焼きで、そのまぁ会食をなさった事と思いますけれども。ためには先ず何と言うても、信心が好きにならなきゃいけない。めぐりを有り難く頂くと言う事。
 それになら支部長さんであるなら、支部員の中には様々な人がございます。今問題が起こります。甲が右と言う乙が左と言いうそこで、いわば支部長さんもどっちしていいやら分らんと言う時も、まぁありますけれども。白があって良し赤があって良しね、黄ながあって良し青があって良しで様々人がこうありますけれども。それをね、それが一つ一つ牛肉の信心にして、味を出したやれるためには豊かに大きゅう、あれはいけんこれでなからにゃいかんと言った様な思いを捨てて、いよいよ豊かに大きくならなきゃちった人間が甘もならきゃいけん。
 そこにいうならば成程自分は支部員の為に、いうなら信心さして頂きょったら、今日の関屋さんじゃないけれども。人が助かる事の為の修行と思いよったら、自分自身が助かり自分の孫が先ず第一に助かって来たと言う働きを受けながらね。力を受けて行く。しかもその精進の対象と言う事がです、私共はこういう本当に一つ、皆さんがお話聞いて下さって、本当に金光教の信心とはもう前代未聞です、開闢以来です。ここの宗教はもう追随は許さない。確かに教祖の神様というお方は前人未到の道を開いて下さった。
 そういう素晴らしい宗教ですよと人にお話をしたと致しましょうか。自分はそう信じておる。そんならどこが前人未到のち言われたらどう答える。どこが開闢以来の、何処が前代未聞の、と言われた時にそれをつまびらかに説明が出来るのは、自分自身の実験実証からだとおもいます。自分のおかげを受けておる事実を、しかも人間が人間らしゅう生きながら教えを踏んでいけれる。
 そこにはきつい事もきつくない、悲しい事も有り難とうなると言う様な道を、体得しながらどうしても教えを本気でとりくませて、いわゆる前代未聞の信心をそうと確信が出来る、信心の確立できる事のために前人未到の道を開いて下さった。しかも天地に繋がることが出来る。この事の事を生神生神というが皆もその通りのおかげが受けられる。このかたがおかげの受け始めであって、生神とはここに神が生まれることであってと言われる様に。そういう此処に神が生まれる。
 喜びが生まれる。和賀心不平もない不足もない、又不平不足を思わんで済む世界こそ和賀心の世界だと、この頃から頂いましたね。そういう世界を目指すためには、稽古なしに私は頂けるとは思われない。折角信心の喜びの芽が出る、折角神様の御用も今日こうやってかえたけれども、そこにちょっとつつかれるともう要がバラバラになった。ちょっとつつかれると又元の通り回れ右になって、後退してしもうてもう夫婦別れでもしょうかと言う様な事になったんでは、折角の是の生神の道は途絶えてしまう訳です。
 私共がね、本当に前代未聞と自分でも確信が出来れる、しかもそれがどこが前代未聞かと問われたら、こういう宗教がまたと外にあったでしょうか。こういう助かる手立てを説いた宗教があったでしょうか。宗教すれば段々窮屈になる、それが手がせ足かせで、いうなら険しい戒律を守っていかなければ、その信心が分らんと言った様なものではないと言う事。そういう信心を目指さして頂く。15年の記念祭を前に支部長さん方自身が、先ず自分の支部員の方達の信心の向上をはかってね。
 いうなら一つの記念年の節年ですから、この節を有り難く乗り越えるために信心の方をしっかりやって下さいと言う様に。まぁ支部長さん方にお話ししたところですけれども。秋永先生がここでお話しておられますように、もういよいよ来月の16日が記念大祭。おたがいのいうならば自分の周辺の人が助かるための働き、いうならば合楽示現活動に参画さして頂く時は、こういう時だと言うためには自分の信心の実力を身に着けとかなければおかげにならん。
昨日御礼信話会でございましたが、椛目の妹がお届けしとりましたが、今日は大変うれしい事を聞きましたとこういう、ここのこっちがさいじょう、こっちが石浦ですかね、ねそうじゃろこっちが石浦じゃね、石浦の元学校の先生をなさっておられた方が帰りょったら、池尻さん池尻さんと呼び止められる。なんでしょうかというと、もうとっても嬉しい事を聞いたけんあなたに聞いて貰うと。その先生はまぁ合楽ひいきで教会ひいきなんですよね。先だってから石浦の、石浦神社でしょうかと公民館の清掃があった。
 だからこっからうちも出る、誰かがこっからも出るわけですけども。こっから末永欣也先生がでましたそうです。もう今度ちゅう今度村中のものが、もうそれこそ目を輝かして信心ちゃ有り難い事ちゅうて、誉め讃えておりますと言うお話しであった。ほうどうしたでしょうかという。それがもうとにかくお便所と言ういままでかなり掃除したと言う事なかったところを、もうそれっこそ一生懸命で、あの公民館が見違える様に美しゅうなるように、あの青年はどこの青年かと言う事になって。
 あれは金光様の修行生の先生だと分って、今まで大変悪口言いよった人がもう本当に、あのはぁあ信心ちゃ有り難いこっちゃあると、皆んなが言いよりますと言う事を、妹に話されたと言うのです。別にそうだからしたわけじゃない、言うならば陰陽向の言うならない心、どこにおってもそれを信心で、なに事にも信心になれといわれる。それをただ実行しただけの事である。だからそれと反対の事をやったら、ありゃどこの青年かぶらぁぶらぁしてから、ありゃ合楽の修行生。
 はぁもうろくな修行生はおらんね、ちゅうて金光様の名前にまでかかわって来る。ところがなら反対に金光様の親のねおしまで出て来る様な、日頃信心を頂とかんと示現活動だけ素晴らしい素晴らしいだけじゃ着いて来んです人が。そういう嬉しい事になりたい。神様喜んで頂く様な自分になりたい。そういう実験実証こそがですいよいよおり難いと言うものを育てていく事になります。とにかく有り難く頂く、昔ここで頂いた御理解でしたけれども、金光教の信心はふぐの様なもんだと。
 有り難く頂けば天下一品の珍味だけれども、一つ間違うと命にかかわる様な事にもなるぞという。昔ぁし頂いた御理解でした。その御理解を又改めて深めて、今朝私しはそのふぐのお夢を頂いて、はぁあなるほど教祖の神様という方は、このふぐの食べ方をしかもその絶対間違いのない、いうなら頂き方を、磨き方をいうならそれこそ自分のお家では、七墓築くような難儀に出合い賜いながら。
 いわゆる悪神、邪神と人が言うていわば、それを避けて通るような神様に向って、真心を貫かれた時に、初めてお前の実意丁寧には、もう神の方が負けたと言わんばかりに、慈愛あふれる天地金のかみさまとして、姿を現されるようになった。その親神様の心を心とする生き方こそが合楽理念なんです。天地と交流すると言うのはそういう事でもあるのです。そういう有り難いそういう尊い信心を私し共が、頂いておる事を先ず頂かにゃいかん。そこに確信を持って。
 私共のいうなら頂いとる信心に対して、一つのまぁ誇りというですかね、プライドというでしょうか。もってどこがそんなに素晴らしいかと、問われた時にはぁあなるほどとまた聞く人も合点がいく様な体験を持って示せれるようなね、前人未到の過去の宗教者、宗教があるゆる人間が、通ったことのない天地に繋がらにゃならない、天地と交流出来れる手立てと言うものをです。教えて下さるのが金光教の教祖の御教えであります。それをなら100年後の今日、確かに教祖様は嘘は仰ってないんだと。
 それをまた証し立てておるのが今日の合楽教会と思うのです。だから皆さんの一人一人がその証を立てておいでられる時に、いよいよ合楽の信心が又世に問われ、また輝く時になると思うのです。ひとつ15年祭をめざしてね。皆さんの信心もちっと難しいかも知れませんけれども。少しは手も届かんごたる感じですけども、そこを今迄の信心じゃいけんもう一段こう背伸びをするというか、難しい出来んけどもね。
 それを一心発起する時にそれこそ、でけんけれども出来たかのようにして、おかげが頂けれる。そして信心が次々と進んで行く、関屋さんの信心から、伊藤さんが信心から関屋さんが学ばれた。もうそこにゃ伊藤さんに対して神様がもう次の信心を、自動車の信心から機関車の信心になれよ。ついにはすき焼きの信じんぞと教えられた。もっともっと豊かに大きく成らにゃいけないぞ。
 とういうもう次の信心に手を掛けて行かれる様な働きを受けておられる。ここが皆さん本当におかげ頂くけん合楽に通うてきょるとじゃなくて。そういういうならば素晴らしい、前代未聞の教え前人未到と言われる様な道を折角教祖様が踏み拡げておって下さるのですから。そこを私共が人間が人間らしい営みの中に、いわゆる信行、心行、家業の行を持って進んで行けれるのですから。目指すところをもっと高いところにおいて、それに精進していきたいと思います。
  どうぞ。